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いろんな人と関われば成長できる。小林大悟さんがホームレス支援を本業にするまでの経歴

小林大悟

本当にピンチになる一歩手前で、役立つ情報をお届けしたいと思っているヨリドコオンラインですが、「ヨリドコオンラインの相談員ってどんな人?」と感じる方も多いのではないでしょうか。そこで今回は相談員の小林大悟さんに話を聞きました。

知らないおじさんとストリートファイトした17歳の頃。

ーーー学生の頃からホームレス支援に興味があったのでしょうか?

まったくなかったですね。ボランティア活動自体は大学1年生の入学時期から始めました。一番最初にボランティアしたのはYMCAで、子どもたちをキャンプに連れていく活動をしていました。

活動の原点は高校3年生まで僕自身がほんまにアホやったからなんです。短絡的で何も考えていなくて、人との衝突とかもあったりもしたし、たいしたことじゃないけれど、警察に捕まったりしていた中で、

ーーー警察に? ゴクリ…

補導レベルですよ。知らないおじさんと路上で殴り合いの喧嘩して捕まったりとか。

ーーーパトカーに連行されたわけですか?

その時はおじさんに指を噛まれた状態で全然離れなくて、鼻に頭突きを入れてやっと離れたと思ったらありえないぐらい血が出てて。警察が来て、救急車が来て、そのまま救急車で 阿倍野の相原第二病院へ行きました。

ーーー壮絶…

二針ぐらい縫ったかなぁ。治療が終わったら処置室の前で警察が待っていて、そのまま今度はパトカーに乗せられて。まあその話は横に置いておきましょう。

大学時代、キャンプのお兄さんとして釜ヶ崎へ。

ーーーそんなストリートファイターがなぜキャンプのお兄さんになったんですか?

そんな具合にアホやったんですけど学校もすごく苦手で。集団での授業が苦手で、小学校も中学校も高校も、とにかく先生に怒られた記憶しかないんですけども、学力を補填するために高校生のときに個別指導の塾に通ってたんです。

その塾の先生が大学生のアルバイトの先生たちで、素敵な人たちだったんですね。勉強そっちのけで、みんなで先生と一緒に当時はイラクへの自衛隊派遣についてどう思うかとか議論していて、それが楽しくて、そのときにふと自分が変化しているのを実感したんです。

「あ、人と関わったら自分って成長できるんやな」と実感したんですね。大学に入学したらもっといろんな人と関わってみたい、自分の事をもっともっと変えていきたいと思ったのが一番最初の入り口で。

どうやって人と出会えるかと考えた時に思い浮かんだのが、子どもの頃に参加していたYMCAのキャンプで、あれなら子どもと関われるし、同年代の大学生のボランティアとも関われるし、年上の職員や、保護者とも関われるやんと思ったんです。

ーーー計画的ですね。キャンプがなぜ貧困問題の支援につながるんですか?

大学に入学して天王寺の近くにあるYMCAでボランティアをはじめたんですが、もう今はなくなってるらしいんですけど、当時は夏休みの期間、西成区内の子ども関係の団体の夏のキャンプとかにボランティアを派遣していたんです。当時の僕の先輩が誘ってくれて行くことになったのが、僕の中学校区にある山王こどもセンターなんです。

山王こどもセンター

ーーー「ニシナリスト小林大悟編集長が伝える、釜ヶ崎まち案内」に登場する場所ですね。

そうです。山王こどもセンターが、西成での活動の最初の入口です。

毎年ボランティアを派遣しているけれども、その後も個人的につながるYMCAのボランティアってほぼいないんですが、その中で僕はすごくはまったんですね。

子どもたちがすごいしっくりくる部分とか、僕自身が落ち着く部分があって、地元が一緒だからか空気感が似てるからかわからないですが、個人的に関わるようになりました。

もうひとつ理由があって、ボランティアって普通「来てくれてありがとう!」みたいな世界が一般的な中で、山王こどもセンターの場合はボロクソに怒られるんですよ。

ーーーどなたに?

代表やOB、OGにも怒られるんです。地域の人たちにも至らない部分を怒られるんです。

ーーー厳しいですね…

山王こどもセンターは参加費とかボランティアも一部実費を払って参加しているので、「なんで自分のお金を出してまでボランティアして、こんなに怒られなあかんのかな?」と、楽しい反面、悔しい思いがありました。今振り返ると、めちゃくちゃみんなに育ててもらってたんだなという感謝の気持ちしかありません。

山王こどもセンターに関わるようになって、当時の職員が「こどもの里もたぶん大悟に合ってると思うで。紹介するからボランティアしてみいや」と連れて行ってくれて、そこで「こどもの里」でもボランティア活動がはじまって、そこもしっくりきました。

こどもの里

こどもの里の場合は山王こどもセンターと違って、施設内に住んでいる子どももいるんですね。で、すごく楽しかったです。

なんでこんな楽しいんやろなあと考えたところ、これは僕の中でも仮説なんですけども、僕は3歳の時に小児がんになって、13カ月入院してるんですよね。この期間は子どもたち同士で集団生活をしたんですよ。そこがなんかしっくりくるのかなーと思っているんですけども。

こどもの里でボランティアを始めると、職員から「アルバイトとしてうちで働いてくれないか」と誘ってもらってアルバイトスタッフになりました。そのあたりから地域に深く入るようになって、関われば関わるほどしんどいこととか自分の至らなさを突きつけられていきました。

僕自身、すごく悔しくて、本当に辛い結果になることもいっぱい見てきた中で、次はこんな思いをしたくない、もっと関わりたい、力をつけたいという思いがありました。

釜ヶ崎は精神的に不安定な人がボランティアとしてハマるというのはよくある話なんですけども、僕もそのひとりでした。当時鬱病になっていた時期で、釜ヶ崎の温かさにのめり込んでいきました。

関わっている中で、どんどん知り合いが増えていくので、知り合いに会いに行くみたいな気持ちもあったりして、ずっとボランティア活動を続けていたという流れです。

「やりたくない仕事」がしたい。

ーーー大学卒業後は釜ヶ崎とは関係のない会社に就職されましたよね?

そうですね。当時釜ヶ崎での活動にのめり込み過ぎたのもあって大学を2回留年したんですけど、だから結構まわりの人たちは釜ヶ崎関係か福祉関係で就職すると思っていた人が多かったんですけども、やりたくなかったんですよね。絶対嫌だと思っていて。

というのも、めちゃめちゃ良い活動しているけれども、ある意味、排他的な空気を感じていたのがあります。また事業継続のための貪欲さがなく、「貧しいことが清い」と感じる部分もあり、活動自体は応援してるし、僕自身も関わりたいと思って関わっていたし、今後も関わっていくつもりであるけれども、「主たるものにはなりたくない」という思いがありました。

求人広告の営業職を選んだ理由としては、当時鬱になっていたのもあって、都会がすごく苦手で心斎橋とかに行ったら涙が流れてしまって。人が多いのはしんどすぎたんです。

就職活動が始まる前のタイミングで、もう田舎で暮らそうと思って、泣きながら親とゼミの先生に「僕はもう学校を辞めて農家になりたいです」と直訴しました。

ーーーまた極端ですね(笑)

そうそう、親も教師も「あ、ちょっとやばいかも」と思ったのか、「ちょっとゆっくりしなさい」と言われて、1か月ほど家に引きこもっていました。

引きこもっていた中で、ちょっと外に出ようと思って、車で九州に旅に出たんです。九州をうろうろしてた中で、お金が底をつきそうになって、それがすごく怖くて。その時に、お金の大切さをしみじみ感じました。

どうやったら自分はお金を生み出せるのか考えたときに「何もないわ」と思って。「やっぱり自分はぜんぜん今、大したことないねんな」と思って就職せなあかんと思い至ったんです。その時、「就職活動するならとことんやりたくないことをやろう!」と思って。

ーーーまた極端すぎますね(笑)

「営業の仕事は向いてもいないし、やりたくもないな」と思ってたんで、営業ができるようになったら苦手なものがひとつなくなると思って就活をはじめたら、サクサク内定が決まって。大阪の梅田で2年間働いていました。

ーーー2年間サラリーマンをした後、西成に帰ってくるわけですか?

というわけでもなく、2年働いていた時に、結構ハードワークだったので、そろそろ転職したいと思っていたら、僕の担当だったお客さんで、歴史も技術力もある中小企業で、ある分野において国内シェア半分以上占めているところがありまして、東京の営業職の求人を出したいと言われて、支店長にお話を聞かせてもらう中で、すごく気に入ってもらって、「キミがおいでよ」と誘ってもらったんです。

ーーーヘッドハンティングじゃないですか!

よくある話なんですよ。なにせ皆さん人を欲している会社ばかりなので。支店長の方もすごい素敵な方で。

ーーーすごいですね、心斎橋で泣いていたのに、どんどん都会に行くじゃないですか(笑)

はい(笑)、東京で機械メーカーの営業になり、2年弱働きました。楽しかったし、良い会社で、先輩上司らにめちゃめちゃよくしてもらってたんですが、辞めた理由が西成につながるんですけども、当時NPO法人Homedoor(ホームドア)という団体に誘われて、退職したという流れですね。

東京から静岡経由で大阪へ。

ーーー東京で大阪のHomedoorとどうつながったんですか?

就職後も釜ヶ崎に出入りしていて、こどもの里にもずっと関わっていたんですけど、毎年年末にワークキャンプをこどもの里内でやっていて、年末年始に全国からボランティアが「こどもの里」に集まってくるんです。

僕も毎年のように参加してるんですけども、そこで渡部清花という人に出会ったんです。当時は大学生で、今はWELgee(ウェルジー)という難民支援団体の代表をやっている人なんですけども、仲良くなって、彼女の実家が静岡県富士市でたごっこパークをやっているNPOで、そこに遊びに行ってご両親のたっちゃんとみっきぃとも仲良くなっていました。

それで東京で働いたときに「GW前に大阪に帰ろうかな、どうしようかな」とSNSでつぶやいたのがきっかけで、前述のたっちゃんとみっきぃが「明日から大阪学習ツアーに行くから、今から富士においでよ」ってコメントを残してくれたんです。

「行きます」と言って、その日のうちに東京から富士市に行って何も知らないままついて行ったら大阪学習ツアーの行き先は西成やったんですよ。

ーーーそこで西成が出てくるんですね。

で、西成に行ったときに学習ツアーのフィールドワークを担当していたのがHomedoorだったんですよ。そこで初めて僕はHomedoorという団体を知りました。

事業の持続に向けての組織基盤であったり、収入の観点などをしっかり考えた団体で、しかも自分より4歳年下の人が代表をしていてすごいと思っていたら、「うちで働きませんか」と誘ってくれて。

めっちゃ悩みました。今でもこの帰りの新幹線でずっと心臓がドキドキしてたのを覚えています。

ーーードラマチックですね。

Homedoorでは2年ちょっと働き、ホームレス支援に関する現場的な活動もしてましたし、もともと営業をやったっていうのもあって寄付集めであったり、就労の場づくりも携わっていたりしました。

ーーーすごろくのように戻ってきてますね。

Homedoorで働いていた時に、「山王こどもセンターの施設長がもうすぐ定年になるからうちに戻って働かへんか?」と声がかかり、Homedoorを退職して、山王こどもセンターで働き始めました。山王こどもセンターでも2年ぐらい働いていました。

地域的観点で関わっている。

ーーーその後、釜ヶ崎支援機構ですか?

そうですね、釜ヶ崎支援機構の事務局長から「新しい事業を始めることになって、そこを任せられへんか?」と声がかかりまして。その新しい事業がサービスハブです。

ーーー今の場所でこれまでやりたかったことができている感じですか?

そうですね、やりたかったことはめちゃくちゃできてますね。特に釜ヶ崎の地域内でこう変えたらもっと良くなると思っているウィークポイントに今関われています。

ーーーいろんなところで働かれたことによって、外からの視点も加わって、失敗事例も成功モデルも知っている段階で今のポジションに配属されたのはすごい良かったんじゃないかと今までの経緯を聞いていて思いました。

そうですね、全然その気はないけど結果いろんな伏線を回収してると感じます。求人広告の営業は人材の採用業務なので、今の就労支援にめちゃくちゃ役立ってますし。

ーーー貧困問題に取り組んでいる理由は、学生時代に山王こどもセンターやこどもの里で働いていた経験が大きいですかね?

大きいですね。貧困関係やホームレス関係に取り組んでいる方は社会問題に対しての意識が高い人が多いですけど、僕はかなりそのあたりは薄くて、地域的観点で今関わっている感じですね。

ーーーそういう視点の人が地域にいるといいなあと思いました。短時間でいろいろ聞いてしまいましたが、また今度深く聞かせてください。ありがとうございました。

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