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ルポシリーズ「三浦 陽斗さん」前編

リドコオンラインの「ルポシリーズ」では、釜ヶ崎のまちで暮らす人々のものがたりをお届けします。毎回ひとりずつに、釜ヶ崎に訪れるまでの背景、訪れてからの人々との出会い、活用したサポート内容、そして今の状況や想いなどを語っていただきます。(※登場する人物名は仮名です)

こんにちは。三浦 陽斗といいます。
函館出身、35歳男性。かに座、AB型のバツ2です。そこまでいらんか。(笑)
えっと、10年前に函館から、大阪の釜ヶ崎に来ました。あ、趣味は料理です。

今も、釜ヶ崎のある西成区に住んでるんですけど、自分はこのまちと、このまちで出会った人のおかげで、今、生きています。それから、この文章はインターネット上の記事なわけですけども、インターネットの中で出会った人にも、めちゃくちゃ救われて、今、生きています。

だから、ちょっとでもこの話が昔の自分みたいな人に届いて、ひとりでも役立ってくれたらいいなと思って。今日はこれから、自分が釜ヶ崎に来るまでの話と、来てからの話をします。

-1- 背中を追いかけたくなる歌声

ちょっとだけ、こども時代のことから話します。

自分は、3歳のころから18歳まで施設で育ってて。
お父さんが早くに死んで。お母さんがうつ病になって。俺と妹の面倒みれなくなっちゃって。でも施設は楽しかったです。料理したり、みんなでキャンプ行ったり、船乗せてもらって釣りしたり。野外活動とか仕事体験とかは、普通に家で暮らしてるクラスのみんなよりも圧倒的にできる環境でした。

そのあと、高校卒業と同時に、陸上自衛隊に入りました。
進路面談のとき、先生に「おまえ公務員なったほうがいいんちゃう」って言われたことに流されちゃって。「公務員やったら自衛隊かなあ」ってなって。俺、陸上部で、長距離早かったし。(笑) ほんとは寿司屋になりたかってんけどね。築地に行きたい寿司屋があって。寿司屋は、函館の水産高校だったってのもあるけれど、やっぱり、料理が好きだったから。

自衛隊は、「陸士長」っていう階級になるまで続けたけど、そこで辞めました。それから、現場、大工、解体、足場屋、ペンキ屋……いろんな仕事をしました。でも、大半はホスト。店変わったりはしたけど、合計14年は、ホストをやってました。

ここからはホスト時代の話が続きます。

まず、ホストになった理由としては、義理の兄ちゃんが歌舞伎町でホストやってたからで。
兄ちゃんはいわゆる美男子。めちゃくちゃかっこよかった。あと、歌もめちゃくちゃうまくて。喋りもうまくて面白くて、いつも店でもNo.1とってて。そんな兄ちゃんに憧れて、俺もホストの道に入りました。兄ちゃんはもう、死んじゃったんですけども。
でもほんとに、とにかくかっこよかった。高校生のころ、ジャニーズのオーディション受かってたりとか。と思えば、暴走族の総長やってたりとか(笑) 昔からもう、破天荒な人だったです。

でね、俺、その兄ちゃんに一回ボコボコにされたことあって。18か19の頃かな。なんの脈絡もなく、ただただ殴られたっていう。意味わからんかったけど、でも、めっちゃ覚えてる。殴りながら兄ちゃんずっと、「母さん大切にしろや!」って何度も言ってて。いや、してるし、って思ったけども。

だから、人生の中で、生きてたら兄ちゃんが一番こわいもんなあ。「そんだけされて、兄ちゃんのこと嫌いにならんの?」って聞かれることもあったけど、なんか憧れてたところがあった。

ちょっと話がそれるんですけど、自分、死んだお父さんの顔、全然覚えてなくて。めちゃくちゃちっちゃい頃やったし。でも、声だけは覚えてて。覚えてるっていうか、たまに聞いてて。

っていうのも、お父さんが歌ってるテープが一つだけ残ってて。で、それがまた、うまいのよ。何の歌やろーってお母さんに聞いたら、なんか、勤めてた会社のテーマソングを作詞作曲したらしいんですけど。でも内容としては、どうも若い頃にお母さんに宛てたっぽい歌詞なんですよ。めっちゃ恥ずかしい歌詞で。(笑)

でも、それも含めて、なんか、めっちゃ良くて。ずーっと聴いてられる。だから、俺、そのテープを携帯で録音しなおして、今もスマホに入れてるもん。あ、聴きたい人は、いつでもゆうてください。

兄ちゃんも歌がめちゃくちゃうまかったし、よく頼ってたホストの先輩も、めちゃくちゃうまかった。なんやろ、自分が憧れる人は、歌がうまい人ばっかりです。たまたまですけど。でもどっかで、お父さんの歌のことも、頭にあるんかもなあ、とは思う。無意識に。

……まあ、そんな感じで、「俺も兄ちゃんみたいになりたい!」っていうか、「兄ちゃんを超えたい」って思って、函館でホストになって。そこで出会ったお客さんと仲良くなって、結婚することになりました。そして、そのタイミングでホスト辞めようって決めて、大工仕事をはじめました。

-2- 家族の道、ホストの道の終わり

ただ、そこからはお金がしんどかった。


一日、どんだけ残業しても6000円。だから、月13万とかで。こどももできたから、「これ、食わしていけるんかな」って思って。

相手の父親にもめっちゃ怒られて。相手方の親とは、もともと仲良くなかったのもあって、「娘といたいなら出稼ぎにいけ!」って。でも、お義父さんに言われても言われなくても、ホントに厳しかったから、月30万もらえる工場を探すことにして。そしたら岐阜に見つけて、出稼ぎがスタートしました。

当時のやりくりの環境としては、給料の通帳は嫁が持ってて。こども名義の口座に、自分が出稼ぎ先の工場で稼いだ給料が入るようになってました。で、そっから毎月1万円だけ、俺んとこに送金される、っていう。米とか食材は送られてくるんですよ。送料だけでもめっちゃかかるのにな〜、とは思ってたけど。

で、出稼ぎを始めた頃は、「嫁とこどものために!」って気持ちが強かったから何も思わなかったけど、月1万円生活は、自分にはムリでした。タバコも吸ってて、それだけでもお金かかってしまうし、結構ストレスが溜まっていって。「もう少し上げてほしい」って、3ヶ月くらい頼んだけど、1万円から上がらなくて。

最終的には、やっぱりケンカになって離婚。
岐阜で働く意味もなくなった。
お金も手元に、全くなくなった。

そこで、函館でホストやってたときの先輩に連絡しました。

そしたら、「俺、今大阪おる。困ってるんなら、とりあえず大阪おいで。仕事なんぼでも紹介するわ」って、5000円送金してくれて。そのお金で、岐阜から大阪向かって、お店紹介してもらって……そこからは、第2のホスト人生のはじまり。それが26歳かな。大阪のミナミで。

最初、自己紹介のとき「バツ2」って言ったんですけども、2回目に結婚した女の子は、その大阪のお店で、一目惚れしたお客さん。もう、漫画みたいな一目惚れの仕方。(笑) お店入ってきて、席ついたときには、もう好きになってたもんなあ。

で、「美容師やってるねん」って言うから、「んじゃ明日いくわ」って言って。翌日ベッロベロの状態で、その子のところに行って、その子指名して、髪切ってもらって。それから週2とかでその美容院に通うようになって。指名されるべき身やのに、自分が指名して。どっちがホストなん、っていうね。(笑) でも、1ヶ月くらいで付き合うことになりました。すごいでしょ。同棲はじめて、こどもができて、そして結婚。ホストもやめました。

けど2回目も離婚。理由は、よくある、価値観の違いみたいなことです。こどもへの教育費を送ったりで、今でも普通に、連絡は取り合ってるんですけどもね。

離婚後は、もう一度ホストに戻りました。
で、もう俺そのとき、めっちゃくちゃ頑張って、3ヶ月でNo.3までいって。月60万もらえるようになりました。No.3止まりだったけど。やっぱね、大阪でNo.1はめちゃくちゃ難しいわ。そう考えたら、歌舞伎町でトップやった兄ちゃんは、本当にすごかったんだなと思う。

それから4年。俺は喋りでお客さんが付くタイプだったけど、お客さんと一回り以上、年齢が離れていくと、やっぱどうしても話が合わなくなってきて、売上も立たなくなってきて。「もう、賞味期限かな」って感じることが増えて。

で、まあ他にもいろいろあって、ホストの道を終えました。
34歳でした。

>つづき「後編」はこちら。

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