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ルポシリーズ「中野 啓二郎さん」後編

リドコオンラインの「ルポシリーズ」では、釜ヶ崎のまちで暮らす人々のものがたりをお届けします。毎回ひとりずつに、釜ヶ崎に訪れるまでの背景、訪れてからの人々との出会い、活用したサポート内容、そして今の状況や想いなどを語っていただきます。(※登場する人物名は仮名です)

>この記事は「後編」です。「前編」はこちら。

-7- 真っ白なふとんで泳いだ日

釜ヶ崎にたどり着いた日の、朝9時。

「ここを訪ねていけ。釜ヶ崎来たら、この人に頼れ」

三角公園でおっさんにそう言われた通りの場所を訪ねていったら、「南事務所」って書いてあった。ドア開けたら「どうぞお入りください」って言われた。んで、1時間くらい、いろいろと話を聞かれた。

その中で、「今いくらありますか?」と聞かれた。167円。全財産。「ほんとにこれだけ?」「嘘ついてどうすんねん!」って突っ込んだわ。(笑)

そしたら、「ほんなら、ついてきてください。荷物はあとでいいので、一旦出かけましょう」と。着いたら、スーパー玉出やんか。んで、その日の昼、夜、明日の朝の弁当、買ってくれて。「え」って思って。

「あと何か欲しいもんありますか」って聞いてくれるから、「煙草欲しいな」って言ってみた。でも、「さっきポケットに持ってたじゃないですか」と。よう見とんな、と。(笑) 「じゃあコーヒー飲みたい」って言ったら、コーヒーも買うてくれて。それからもっかい、荷物置いてるところ戻った。

着いたら、その人がどっかに電話してて。電話切るやいなや、「荷物持ってください、移動しますね」。それで案内されたんが「ビーバー2」っていうところ。ドヤ(簡易宿所)やな。

「今日からあなたは1週間ここで過ごしてください。そして毎朝10時に南事務所に来てください。必ずそれだけ守ってくださいね」と。

部屋のドアあけた。入った。三畳一間。テレビもあって。そこに、真っ白のふとんが、シーツかかって、敷いてあったんや。おれ、それにもう、めちゃくちゃ感動したんや。おれ、ほんとに床にリュック投げ下ろして、その真っ白のふとんにダイブして、泳いだんや。「今日からふとんもあるし、テレビも観れるんや!」って。

-8- タイルに流れる、真っ黒な筋

ちょっとしたら、ドヤの管理人があがってきた。
「おーーい兄さん、臭いわ、風呂入ってこーい」と。

ドヤの中に、7〜8人入れる大浴場があったんやな。で、
「兄さん、一番風呂やで、今日」
「ありがとうございます、お先呼ばれます」と。

ほんでな、まず頭を洗った。そしたら真っ黒い汁が、排水溝をぐーーっといくやんか。タイルの上を流れてく真っ黒な筋。今でも忘れへん。で、体も洗って。しっかり洗ってんねやで。体洗ったら普通さ、湯船入っても、垢なんて浮いてこーへんやろ? それが、新しい湯船に、パッ、と入った瞬間に、ぶふぁぁーーって、浮いてくるねん。(笑)

管理人がそれ見て、
「おいおい(笑)……掃除手伝え、もっかい風呂洗う(笑)」
もちろん、全力で手伝ったわな。

そうして、そのドヤで1週間過ごさせてもらいながら、約束した「南事務所」に朝10時に通った。

この「南事務所」ってのが、釜ヶ崎支援機構の事務所やったわけやな。で、毎日相談に乗ってもらったり、食べもん助けてもらったりして。

でもほら、おれは基本的に人を疑うクセがついてもーてるからさ。「やばいとこ来てしもたな」、「こうやって食わして寝させて、おれの内臓でも売る気やわ」と。(笑) 

でも、そんな人はひとりもおらんかった。
みんな誠実やし、みんなええ人やった。

-9- 天王寺動物園から病院へ

ある日、相談の中で、「生活保護」の話が出た。

おれ、それだけは絶対避けたい、と思った。もちろん、プライドみたいなもんもあるにはあったけど、そうじゃない。「身内に存在や場所が知れる。それだけは避けてえ」と思って。殺されかける事件もあったしな。

で、役所行って、そのあたりも相談したら、「では、働く努力をしてください」と。ハローワークに週何回か通うようになって。そしたら、天王寺動物園の掃除の求人があったんや。

「わ、動物園たのしそうやな」と。人やと疑ってしまう、動物たち相手、これはええわ、と。で、応募したら、すぐ通ったんや。

それで、次の水曜日に来てくださいって言われて。行ったら、自己紹介のあと、動物園の隅々まで案内されて。掃除するもんやと思ったんやけど、「ここで何時に人を集めて、どうのこうの……」って言う。

「あれ、掃除と違うんですか?」って聞いて。
そしたら「管理を任せます」って。

「いやいや、おれは違う」と。じゃあ昼からまた話しましょうゆうから、とりあえず飯くうて。もう人には関わりたくないんや、といろいろ考えてたら、急に気持ちが悪くなってきて、トイレ行った。そしたら、血吐いた。「やってしもたわ」と。

そっから、「今日は血吐いたんで帰ります」ゆうて、帰らせてもろて。
支援機構行って、「血吐いたよ」って言ったら、すぐ病院連れてってくれようとする。
「看てもらうお金ないからええ」って言ったら、「なんとでもなる、大丈夫です!」って。それで、病院に一緒に行った。

そしたら医者のおじいさんが「こりゃ潰瘍や。やぶれとる。明日麻酔台、連絡しとくから」と。ドロドロのクスリを飲まされて、その日はそのままドヤに帰って。朝起きて、支援機構行って。また病院一緒についてきてくれて。

胃カメラ飲んで検査したら、「あかんあかん、すぐ手術」で、すぐ入院。500円玉の潰瘍が3つあった。あと1日か2日ほっといたらやばかったらしい。

で、麻酔覚めて、支援機構の人に言うたんや。
「おれ、胃潰瘍の手術して、入院して、これ銭どうすんねん。何百万と請求されたら…」と。「また娘の迷惑になるんや、他の身内にも知れるし……これはあかん……」と。

そしたら、「大丈夫、なんとでもなる」と、また言われて。

-10- 受けないプライド、受けるプライド

10日間くらい入院したかな。そのあと帰ってきて、南事務所に顔出した。手術代伝えて「こんなお金、すぐに払えへん」って言ったんや。そしたらパーティション越しにな、「おうい、あまえとけえ」って聞こえた。「今まで十分やってきたんや、甘えとけえ」って。

あの「甘えとけ」っていう言葉に、ポーンと背中を押されたんや。突き放すような声じゃなくて。すごくやさしい声の「あまえとけえ」。あれですごい心が楽になった。「そうかあ。甘えとくか」ってなった。

あとから「あの人誰?」って聞いたら、おれがここにたどり着いた日に、三角公園で教えてもらった名前が返ってきた。それがここ、釜ヶ崎支援機構の理事長さんやったんや。

ただ、その後の役所が大変やった。

「娘さん3人いるんですね。働いておられますね。3人に連絡してください」

身内に知られることは絶対に避けたかったのに、脅されたみたいな気持ちになって。辛抱たまらんで、バーンと立ち上がって、支援機構の人もついてきてくれてたのに、おれひとり、帰ってしもて。

でも、鶴見橋ってとこの交差点で、信号待ってたとき。
ふと、また理事長さんが言った「あまえとけえ」の声が浮かんできて。

「そうかあ、生活保護を受けないプライド、でも、受けるプライドもあるんやな」と思った。信号待ちで、誰も周りにおらんくて。そこにぽつんと立ってる自分を感じて。変な意地張っても、なんもならんなあって、思えたんやろな。

生活保護、受けたら受けたで、それなりの生き方をすればいい。その時々の生き方で、しっかりプライド持てばいいわ、それを大切にしたらいいんやわ、と。

それで信号が青になって、渡って、南事務所に戻った。

「さっきはごめん。もう一度、役所行きます。」

生活保護の申請がおりて、家を借りて、生活が戻って。
それで、今に至ります。

-11- 「なんとしてでも生きたろう」

このまちでの最近の過ごし方は、朝起きて、連絡返したりなんやして。それからお世話になった南事務所に行く。内職でもなんでも、「なんか手伝えることないかー」ゆうて、手伝ったり。

あとは農業の実習行ったり。1日1600円くらいなるやつ。あるいはまちの喫茶店通って、いろんな人と話したり。

その喫茶店な、「病院とアパートの往復では頭がおかしくなるやろう、ここでいろいろ、俳句詠んだりごはん食べたりしてるから、たまにはおいでよ」って誘ってもらったんよ。「俳句なんてやったことないわ」と言ったら「やったことなくてもええやないかい」と。まあ、いっぺんやってみよか、とやってみることにした。

そこでな、「むかししんどう(神童)、いまげとう(外道)」って発表したんや。そしたらウケた。拍手もらった。拍手なんて、いつぶりやったやろか。心地よかった。

それから、その喫茶店には、ちょくちょく行くようになった。自分の心をどれだけほぐすかだけやな、と思って。釜ヶ崎での6年間も、いろんなことあったけどさ、こういう場所があってくれて、ほんとによかった。

自転車を買ったときも嬉しかったなあ。6000円の自転車。ここにたどり着いたときは、そんなもの買えるなんて思っとらんかった。車を買えたときの気持ちに近いかな。「これはええなあ、嬉しいわ」と思った。

「ああ、銭なんてのは、自分の身の丈で過ごしていけば、楽しいんやな、身の丈の生活をしてこ」って、やっと思えた。だって、167円の人間が、6000円の自転車を買えたんやから。天国やと思った。

辛いこといっぱいあった。いろんな経験してきた。でも、そういうときでも、どんなことに「これはええなあ」と思うかは、ブレなかった。そしたら、それだけ強くなった。どこにいても「死なずに生きよう」と「なんとしてでも生きたろう」と思えた。これが、一番よかった。いろんな葛藤や変な意地があったけど、ここに来て、変わっていった。

釜ヶ崎に来て、生き続けて、ほんとによかった。

-12- クマゼミはだめ。アブラゼミがうまかった

釜ヶ崎が自分に馴染んできたころかな。

ある日な、支援機構の人に「講演会についてきてもらえませんか」って頼まれたんよ。なんや、若い人が考えることは何でも応援したいし、何でも手伝う。「おう、ええよ」言うたら、「フリースクールのこども達の前で、ホームレス経験を話してもらえないか」ってことやって。小学校1年生から6年生まで、全員の前で。

これまで生きてきて、人前で何かを話すこと自体はあったし、釜ヶ崎に来てから、プライドやらなんやら、いろいろ考え方も変わっては来てたけど、自分のホームレス経験を誰かに語る、ましてやこども達に話すってことは、これまでなかった。でも、話せることがあるんやったら話そうと思って、マイクを持った。

山の中でひっそり暮らしてたときのことを喋ってるとき。2年生の女の子と、1年生の男の子が、手挙げて、僕に質問してきた。

「食べるものは、どうしてたんですか」。

こども達にこれを言ってしまったら、なんていうか、自分のいろんなかっこつけてきたところの、最後ちょっと残しておいた部分が、いよいよ崩れていくような気がした。でも、2人のこども達の目が、ものすごい純粋やったんや。すごい純粋な目で、聞いてきた。だからおれも、本当のこと言おうと思って、言った。「木の実や草、それから、セミを食ってた」って。言った瞬間、「あー!言ってしまったおれ」って、思った。

でもな、ウケてん。びっくりした。
こども達みんな、どかーんって笑った。

あのときの顔は、「喜び」とか「発見」の顔よな。新しい発見をしてるこども達の顔を見たときに、「はあー、こどもってええな、素直ってええな」って思って。そのとき、フッて、軽くなった感じがして。

そうなったら、もう、何でも喋ったらええわってなって。「クマゼミは硬いからだめ。アブラゼミが一番うまいね」って言ったりして。「アオムシもおいしいよ」って。みんな笑った。

それから徐々に、みんなに話せるようになった。
こども達からの質問がきっかけで、自分の人生のことを話せるようになった。

-13- 「やります」「なんでも」「いきます」

2016年の2月28日。

釜ヶ崎に来たときの日付。寒い日やった。

この頃は、日付とか時間感覚が曖昧やったけど、釜ヶ崎に来たその日付だけは、はっきり覚えてるねん。流れるがまま、そのときどき会った人たちのおかげで、たどり着いたまち。ここの空気が自分に合った。程よい距離感と、あまり人のこと詮索しないところ。みんなが、見かけのことを言わん、言えない人ばかり。しがらみもない。

身内っていうのはさ、自分の動きによっては、足かせになることが多いけど、釜ヶ崎は、全然身内と違う人達ばっかと生活できる。特有の空気があるけれど、こういう場所は、日本にひとつでも、あったらええよなと思う。

ここは、孤独な人が多いと思う。でもここは、いろんな助けがある。
釜ヶ崎はずっと、残ってほしい。残ってくれなあかん、って思う。

ただやっぱり、このまま、このまちのぬるま湯……って言い方悪いけども、助けてくれる文化に、ぬくぬく浸かっとってもしゃーないで、なんかしよう、と思っててな。でも、年齢的に、新しいことを建てるのはもう難しいから、じゃあ、建てようとしてるやつを応援しよう、って思ってる。いつまでも年寄りがやっててもあかん。早めに打ち切って、余った分は、どんどん下へ下へと、送りたい。

それに正直、自分の残りページ数が減ってきたなっていうのは、すごく感じるねん。
だからおれが今、したいことは、若い人への恩送り。釜ヶ崎におる理由は、それ。ここにいて、若い人が提案することに、「やります」「なんでも」「いきます」って。今回こうやって話してるのもそうやしね。

2016年に来て、今が2021年。
だから、釜ヶ崎来て、ちょうど6年。

来たころ、仲良くしてたこどもがちょうど1年生。今あの子も6年生になった。だからおれも、釜ヶ崎の小学6年生、来年中学入らなな。ほら、義務教育が一応9年やんか。だからあと3年は、釜ヶ崎にいてもいいかなって思ってる。命あるうちに、若い人にどんどん、自分がもらったいろんな恩を送っていきたい。

だから、あんたにも都合悪いことがあったら、なんでも盾になるで。「あいつが全部やった」って、おれの名前出してくれたらええ。

すぐ行く。すぐ行って、煙にまいたるからね。(笑)

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